1:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 00:06:41.38 ID:wE3ERgonO
517_1

男「……」
猫「どうした人間。そのように呆けた顔をして」

男「いえ。弐拾余年生きてきましたが、
 猫が喋ったのを見るのは初めてなもので」

猫「そうか。それにしては驚かないのだな」

男「いえいえ。こう見えて私は驚いているのですが」



2:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 00:14:27.50 ID:wE3ERgonO
猫「そうか。吾輩はこれまで99の人間と話をしたが、
 皆最初はもっと大袈裟に驚いて見せたのだがな」

男「そうですか。それで、その猫さんが私に何の御用でしょうか。
 道にでも迷われましたか?
 しかし申し訳ありませんが私も今日この街に来たばかりで」

猫「吾輩はこの街にもう何拾年も住んで居る。道に迷いなどするか」
男「では一体なにを」

猫「お主、何か望み事は無いか?」
男「……はい?」

猫「――その願い、この吾輩が叶えてやろう」

4:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 00:23:28.29 ID:ypZpfZTlP
男「しかし、私は然したる悩みなど持ち合わせて居りません故」
猫「ええい。何かあるだろう。金が欲しいだとか、女が欲しいだとか」

男「ふうむ。そうですね……。
 しかし猫さん、ひとつ尋ねても良いでしょうか?」
猫「なんだ」

男「何故猫さんは私の願いを叶えるなど、物好きでもしないような事を
 なさろうとしているのでしょう」
猫「ええい。そのような事はお主には関係は無いだろう。
 吾輩は与えると云って居るのだ。お主は只、其れを享受すれば良いだけの話し」

男「これは困りましたね。――あぁ、そうだ!」
猫「何か願いが決まったか」

男「実は私、下宿先である先生のお家への道に迷って居りまして。
 無事に其処まで行きたいのですが」
猫「……」

男「難しいお顔をされて、どうされたのです?」
猫「――いや、変な人間だと思ってな」

男「面白い事を言う。変なのは人の言葉を喋る猫さん、貴方の方でしょう?」

5:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 00:32:24.49 ID:ypZpfZTlP
男「おお。之が瓦斯灯と言うものですか」
猫「なんだ。そんなもの別段珍しくも無いだろう」

男「いえ。私の里にはこのような瓦斯灯も、煉瓦造りの家も在りませんでした」
猫「……そうか」

男「あ、あれは何でしょう。何やら女学生が奇怪な乗り物に……」
猫「あれは自転車と謂う物だ」
男「自転車……乗っている女学生も随分とハイカラな方でした」

猫「なんだ。惚れたか」
男「そ、そのような事は」

猫「事の序でだ。道案内だけでは願いを叶えた気もせぬ故、力を貸してやっても良いぞ」
男「わ、私は勉学の為に東京にやって来たのですっ」

猫「っくくく。……まぁ、気が変わったら謂うが良いさ」

7:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 00:42:11.47 ID:ypZpfZTlP
猫「此処か。ふん。随分な豪邸だ」
男「先生は御高名な方です故」

猫「では吾輩は之で」
男「おろ。行ってしまうのですか」
猫「この辺りでぶらぶらしているさ。
 何か道案内以外の願いが決まったら謂いに来ると良い」

男「解りました。ではまた」
猫「ふん。つくづく解せぬ人間だ」

男「行ってしまった……。さて、御免下さい」

しーん。

男「おろ。……御留守ですかね。
 仕方無い。暫く何処かで時間を潰して出直すとしましょう」

キキィッ。

男「ん? 先程の自転車とやらの音が……」

女「……何方様?」

8:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 00:46:32.33 ID:ypZpfZTlP
男「あ、貴女は先程の……」
女「何を謂っているの?」
男「いえ、先刻貴女を街で見掛けまして」
女「……そう。それで、何かわたしの家に御用?」

男「今日より此方に下宿をさせて戴く事になって居ります、男と謂います」
女「ああ。貴方が例の書生の」
男「……」

女「あの? 聞いています?」
男「あ……いえ。そう謂えば先生は何方に?」

女「ああ、お父様ならば」
男「ふむ」

女「お母様と英吉利に渡って居る最中だけれど?」
男「……おろ?」

9:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 00:50:46.80 ID:ypZpfZTlP
――
――――

女「此方が貴方のお部屋」
男「一つ、宜しいでしょうか」
女「何か?」

男「東京の御家と謂う物は、この様に沢山の部屋を持って居るのが通常なのですか?」
女「いえ……余り他所様の御家の事は解らないのだけれど」
男「ふぅむ」

女「――あぁ、そう言えば」
男「何か?」

女「隣の御部屋にはまた別の書生の方が御住いだから」
男「やはり先生は何時でも書生の御力になって下さっているのですね」

女「そのような大層な事では無いわよ。
空いた部屋ばかりでも勿体無いだけじゃない」
男「はぁ」

10:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 01:00:28.80 ID:ypZpfZTlP
女「あ、そうだわ」
男「何か?」

女「今は家事や雑務は隣のもう一人の書生がやって居るから。
 明日からは彼と手分けをしてやって貰うことになるわね」
男「はぁ」

女「しかしお父様のお考えも私には良く解らないわ」
男「……?」

女「わざわざ地方から書生を呼んで住まわせるのだから、
 一体どんな秀才かと思っていたけれど。
 こんなうだつの上がらない男だったとはね」
男「なっ」

女「……では、私は自室に戻るから」

パタンッ

男「な、何なんだ……」

11:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 01:06:41.62 ID:ypZpfZTlP
猫「困っているようだな」
男「これは。何処から入って来たのです?」

猫「吾輩は猫なのだ。少しの隙間さえあれば何処へでも潜り込める」
男「はぁ」

猫「して。街中で見蕩れた女学生が、
 よもやあのように口も態度も悪いとは思わなんだようではないか」
男「まぁ。それはそうですが」

猫「吾輩の助けが必要か?」
男「猫さんならば、どうにか出来ると仰るのですか?」
猫「それはやってみなければ解らぬな」

男「其れより。勝手に猫を連れ込んだと彼女に知られれば、どんな非道い事をされるか」
猫「なっ」

男「……今晩は猫鍋を頂く事になるのでしょうか」
猫「待てっ、お主そのような良からぬ事を考えるのは止めないかっ!」

12:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 01:13:24.18 ID:ypZpfZTlP
男「大体ですね」
猫「なんだ」

男「『助け』と謂っても、具体的に猫さんは私にどのような力添えをしようと
 お考えなのでしょうか」
猫「女の“お”の字も知らぬお主が一人で思い悩むよりは、
 余程有用な策を思いつくやも知れぬぞ?」

男「猫さんは女性の考えに通じていらっしゃるのですか?」
猫「お主よりも永き生を歩んで居る故」
男「……は?」

猫「ふぅむ。そう謂えば、歳なぞは面倒で数えるのを忘れてしまっていたな。
 最後に数えたのは七拾だったか」
男「なっ」

猫「おや。余り驚かないようだな」
男「充分に驚いて居ますっ!」

13:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 01:20:27.35 ID:ypZpfZTlP
猫「まぁ。先ずは隣に住んで居ると謂う書生と会う処から始めないとな」
男「私も考えて居ました。一体どのような方なのでしょうか」

猫「其ればかりは実際に会ってみなければ。吾輩にも解らぬな」
男「其れはそうでしょうが……」

猫「――只、ひとつだけ予感を謂うとすれば」
男「ほう」

猫「その男も又、変わり者やも知れぬぞ?」
男「それは勘弁して頂きたいのですが……」

猫「さぁ。その男と会うのが愉しみになって来たではないか」
男「そんな他人事だと思ってからに」

ガタタン。パタン。

猫「ほぉら。そうこう話して居る内に隣人の御帰りのようだぞ」
男「……嫌な予感しかしませんが」

14:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 01:29:21.45 ID:ypZpfZTlP
男「あのぅ。御免下さい」

ガララッ。

男友「あらぁ!可愛らしいオトコノコじゃな〜い!
 ど、ち、ら、さ、ま?」
男「む、無駄にクネクネとしないで頂きたいのですが……」

男友「御免なさいねぇ。アタシ、つい可愛い子を見るとこうなっちゃうのよぅ」
男(猫さんの予想は確りと的中してしまった様だ……)

男友「ねぇ。アナタ」
男「はぁ」

男友「ひょっとして、今日から下宿するっていう子かしら?」
男「あ、はい。今日からお隣の部屋に。男と謂います」

男友「いやぁ〜ん! アタシの普段の行いが良いからかしら!
 こんなに可愛い子が隣に越して来るなんて!
 嗚呼、この世の中もまだまだ捨てた物じゃ無いわね!」

男「……何と謂う事だ」

15:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 01:36:27.19 ID:ypZpfZTlP
――男友の部屋

男友「良いから、入って入って!」
男「……お邪魔します」

男友「お茶を淹れるから、少し座って待って居てね〜ん♪」
男「はぁ」

男友「あ、そうそう」
男「何か?」

男友「淑女のお部屋を勝手にキョロキョロ見ちゃダメよ〜?」
男(貴方は歴とした男性では無いですかッ!)

男友「〜♪」
男「……あ」

男友「何よ〜? どうかしたの〜?」
男「あ、いや。この本……。男友さんも文学を学んでいらっしゃるのですか?」

男友「も〜ぅ。勝手に見ちゃダメって謂ったでしょう?」
男「あ、……済みません」

17:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 01:44:12.01 ID:ypZpfZTlP
男友「まぁ、いいわ。――はい、御茶」コトリ
男「あ……有難う御座います」

男友「アタシ、これでも地方じゃあ――と言っても雪深い山間の国なんだけどね
 神童なんて呼ばれちゃって。割とお勉強も好きだったし。
 偶々知り合いに先生の知己の方がいらっしゃって。
 誘って頂いたのよ。東京に来ないかってね」

男「……はぁ」

男友「けれど駄目ね。井の中の蛙だったわ。
 海の広さを知れたのは良かったけれども、それに圧倒されてしまった」
男「……」

男友「仏蘭西文学が大好きでね。是がアタシの生きる道だと思っていたのよ」
男「……男友さん」

男友「――なぁんて! なんだか随分恥ずかしい御話をしてしまったわね!
 そんな訳で今じゃあ落ち零れた書生だから。
 あぁ、好きな本が在ったら持っていって良いわよ」

20:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 02:10:30.78 ID:ypZpfZTlP
男友「男は何処からやって来たの?」
男「海のある町でした。
とんだ田舎者で、瓦斯灯も煉瓦造りの家も今日初めて見たのです」

男友「あら。アタシだってそうだったわよ。
 驚くべきは文明開化ね。亜米利加や欧羅巴の文化を取り入れて、
 東京はまさに異国のように見えたわね」
男「そうですね……自転車等と謂う面妖な乗り物に乗った女学生が居るなんて」

男友「あらぁ。御嬢様の事?」
男「ええ、まぁ」

男友「東京でも自転車を持って居る人はそう多くないわよ。
 先生も奥様と英吉利に行かれたし。
このお家は代々随分な資産家だったらしいのよね」

男「ふぅむ」

21:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 02:15:40.10 ID:ypZpfZTlP
男友「――御嬢様、綺麗な淑女よね?」
男「なっ」

男友「あらぁ、図星かしら?」にやり
男「……確かに彼女は見目麗しい方です。ハイカラという言葉そのものの様な。
 けれど……」

男友「――御嬢様にも色々とあったみたいよ」
男「え?」

男友「まぁ。あんまりアタシも詳しい事は知らないし、
 アタシの知って居る事なんて、殆どが噂話なのだけれど」
男「はぁ」

男友「ほら。あの出で立ちで、おまけに資産家の娘な物だから、
 随分と色々な噂が立っているのよ。
 アタシはそれを聞いただけ」
男「噂というのは……?」

男友「察しの通り、余り良いものでは無いわね」
男「……そうですか」

22:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 02:24:01.54 ID:ypZpfZTlP
男友「――訊きたい?」
男「……いえ」

男友「ん。賢明な判断ね」
男「余り先入観を持つのは止めた方が良いと思いますし」

男友「あらぁ。随分な惚れ込み様じゃない?」
男「そ、そのようなっ」

男友「ふふっ。可愛いわねぇ〜」
男「お、男友さん。その様に無暗に触るのは……」
男友「あら、失敬。ついつい♪」

男(私は無事に此処での生活を送れるのでしょうか……)ぞくりっ

男友「――さてと。そろそろ夕餉の準備をしないとね」
男「へ?」

男友「家のお仕事は書生の仕事。訊いて居るでしょう?」
男「あぁ……成程。
 そう言えば男友さんと手分けをする様に謂われました」

男友「どうするの? 一緒に支度をする?
 今日は此方に来たばかりで疲れているかしら?」
男「あ、いえ。お手伝いします」

男友「あら、そう♪」にっこり

23:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 02:33:21.62 ID:ypZpfZTlP
――台所

トントントントン……

男「随分と手際が良いのですね」
男友「もう、長い事此処の台所に立って居るからね」
男「成程」

男友「男ちゃんは御国では御料理はしていたの?」
男「いえ……妹が居たのですが、家の事は概ね彼女が」
男友「あら、そう♪ 男ちゃんの妹さんなんて、随分と可愛らしいのでしょうね」

男「……その“男ちゃん”と謂う呼び方、何とか為らないでしょうか?」
男友「あらぁ。嫌なの? 随分と恥ずかしがり屋さんじゃない」

男「そう言う訳では……」

カタン。

男「……あ」

女「あら。男二人で台所に立つだなんて、見ていて余り心地の良いものでは無いわね」

男友「あらぁ、御嬢様! 御機嫌麗し――くは無いようね、何時も通り」

24:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 02:41:09.89 ID:ypZpfZTlP
女「――なに? 今日も焼き魚?」
男友「鰺は今が旬だから、美味しいわよぅ!」

女「……そう。まぁ良いわ。出来たら呼びに来て頂戴」
男友「もちろんよぅ♪」

たったったっ……ぱたん。

男「……」
男友「あらぁ? どうしたの男ちゃん?」
男「あ、いえ。……何でもないです」

男友「いやぁねぇ! 見蕩れてるんじゃ無いわよぅ!」
男「いや、そうではなく」
男友「ふぅん?」

男「――って。味噌汁煮立ってます!」
男友「あらぁ、大変!」

25:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 03:02:58.82 ID:ypZpfZTlP
――男、自室

猫「――で? 三人で食卓を囲む事は無かったのか?」
男「彼女は自室で食べるそうです」
猫「……ふん」

男「『貴方達と御飯なんて食べられないわ』……だそうです」
猫「まぁ。その方がお主も気楽で良いだろう」
男「其れはそうなのですが」

猫「――して。話を聞く限り、隣人は変わり者だが
 中々面白い奴の様では無いでは無いか」
男「其れはそうなのですが」

猫「っくく。自身の貞操の心配か?」
男「何をそう愉快そうに」

猫「まぁ。これでお主の下宿生活も退屈をせずに済みそうではないか」
男「確かに退屈だけはせずに済みそうですがね」

26:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 03:10:29.28 ID:ypZpfZTlP
男「で。猫さんの分の魚を残しておいたのですが、召上らないのですか?」
猫「ん。腹は空いて居ないから大丈夫だ」

男「そうですか」

猫「折角の心遣いなのに、済まないな」
男「いえ。勝手な御節介です故」

猫「……折角だ。街を案内しよう。其れとも今日はもう疲れたか?」
男「あ、いえ。大丈夫です。お願いします」

猫「そうか」

男「それに、私独りで街へ出ては、
また迷子に成ってしまうのが目に見えて居ります故」
猫「っくく。其れもそうだな」

27:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 03:22:51.74 ID:ypZpfZTlP
――夜、港

猫「お主は海のある国から来たらしいな」
男「え。誰から訊いたんですか?」
猫「隣の部屋の会話くらい聞き取れるさ」
男「そうですか」

猫「して。海が恋しかろうと謂う事で、此処に連れて来たのだが」
男「おろ。そんな心遣いを」
猫「まぁ、お主の故郷の海とは大分様子も違うだろうが」
男「其れはそうですが」

猫「……この港も此処数年で随分と様子が変わった」
男「そうなのですか」

猫「異国から遣って来る大きな船。
 煉瓦で整備された道を歩く異国の人間。
 夜は瓦斯灯で照らされ、風情も何も在った物では無い」

男「之は之で洒落た雰囲気だと思いますが」
猫「……そうか」

28:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 03:26:08.78 ID:ypZpfZTlP
流石に眠たいので撤退しまつ。万が一残ってたら書くよ。うん。

オヤスミナサイ。

31:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 09:29:06.07 ID:fJbA00Th0
これはいいスレ発見した保守

32:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 09:45:30.63 ID:VYpnJDKkO
面白い

34:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 10:10:14.08 ID:AMC7hESS0
のすたるじっく保守

38:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 12:14:35.36 ID:Xum3D1CFO
英吉利ってのが読めなかったけど
凄く面白い

47:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 17:09:23.28 ID:ypZpfZTlP
保守有難う。今から少し書き貯め作ってはじめる。
>>38 英吉利(イギリス)




50:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 17:29:10.14 ID:ypZpfZTlP
――街中

男「時に猫さん」
猫「なんだ?」

男「先刻も訊きましたが、何故猫さんは私にこう御親切をして下さるのでしょうか」
猫「……」
男「何か見返りを望んでいらっしゃるのならば、
 誠に申し訳ありませんが、私には持ち合わせが在りません故。
 ならばいっそ御嬢様の願いを叶えて差し上げた方が良いのでは無いでしょうか」

猫「見返り……か」
男「はい」

猫「確かに吾輩はお主の願いを叶えた暁には、
 ある見返りを得る事になって居る。
 然し、それは吾輩が吾輩と――或いは言霊と約束を交わした物に過ぎない。
 お主に迷惑を掛ける事も無いであろう。安心して良い」
男「猫さんが猫さん自身と御約束を?」

猫「約束――或いは誓いと謂っても良いやも知れぬな。
 幾千の夜を越えても遂には忘れる事の出来なかった」
男「猫さんは何か万事を見透かしたような物言いをなさる」

猫「万事を、か。――そうだと良かったのだがな」
男「……?」

猫「さぁ。いよいよ夜も更けて来た。帰るとしよう」

51:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 17:36:27.39 ID:ypZpfZTlP
――御屋敷、庭

男「これは。立派な紫陽花だ。ねぇ、猫さん――あれ? 猫さん?」

男友「あらぁ男ちゃん! 何処行っていたのよぅ!」
男「嗚呼、男友さん。少し街の方へ……。
 其れより猫さんを見ませんでしたか?」

男友「猫? 見ていないわよぅ?」
男「そうですか。先刻まで一緒だったのですが、何処かへ行ってしまいました」

男友「男ちゃん、猫を飼っているの?」
男「いえ。『飼う』と謂う表現は些か語弊があるやも知れませんが」
男友「まぁ、どちらにせよ御嬢様には内緒にしておいた方が無難ね」

男「ええ。心得ております。
 私とて猫鍋は食べたくありません故」

男友「其れより、丁度良かった。手伝って欲しい事が在るのよぅ」
男「何か?」

男友「御嬢様の湯浴みの為に御風呂を沸かさないとねっ♪」

52:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 17:40:42.12 ID:ypZpfZTlP
カパーンッ!

男「……ふぅ。この位で良いでしょうか」
男友「そうね。充分だと思うわ」

男友「其れよりも、薪割りは随分と手慣れた物じゃあない」
男「ええ。国で良くしていました故」
男友「あら、そう。斧を振り上げた時の上腕弐頭筋の盛り上がり具合が素敵よ♪」

男「……」ゾクリっ

男友「さぁ、御嬢様が湯浴みをしたいと謂う前に沸かし終えないとね」
男「ええ。そうですね」

男友「御嬢様はお湯加減にもとても厳しいから、
 今日はアタシが薪をくべるのを見ていて頂戴」
男「はい。解りました」

54:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 17:48:23.54 ID:ypZpfZTlP
ザッ。

男友「あら、御嬢様」
男「どうも」

女「湯浴みの準備は調っているのかしら?」
男友「ええ。丁度良い湯加減に仕上がっていると思うわ」
女「そう。ならば結構よ」
男友「ごゆるりと」

ザッザッザッ……ぴたり。

女「……嗚呼、そうだわ」
男友「何か御用かしら?」

女「其処のうだつの上がらない書生さん」
男「……私ですか?」

女「まさかとは思うけれど、わたしの入浴を覗く様な事があったら
 警察に突き出して、弐度と此の家の門を潜る事は無いと覚えておきなさい」
男「……態々謂われずともその様な事はしません」

女「あら、そう」

55:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 17:56:35.01 ID:ypZpfZTlP
男友「ふぅ〜ん」

男「何をそう意味深な笑みを浮かべているのですか」
男友「あ、いえね。あんな愉しそうな御嬢様は久しぶりに見たものだから」

男「あの様子の何処が愉しそうに見えたのですか?」

男友「あら。まぁ、男ちゃんは今日来たばかりだから、
 只無愛想なだけに見えても仕方の無い事かも知れないわね」

男「いえ。例え生涯を此処で過ごす様な事が在ったとしても、
 私にはあの態度を『愉しそう』だと謂えるようになる自信はありません」
男友「あら。拗ねちゃって、可愛いわねぇ♪」なでり

男「無暗に太腿を触らないで下さいッ!」
男友「あら、つれないわねぇ」

56:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 18:07:22.83 ID:ypZpfZTlP
――男自室

男「おろ。猫さんお戻りでしたか」
猫「ああ。先に部屋で休ませて貰っていた。
 お主も今日は彼是と疲れたろう、もう休むと良い」
男「そうですね。今日は流石に疲れました。
 布団を敷くので少し其処を退いて頂いていいですか?」

*

男「では灯りを消しますよ」
猫「ああ」

男「……」
猫「明日からは学校か?」

男「はい。……と謂っても明日は手続きやらが主になると思いますが。
 男友さんが御案内をして下さるようです」
猫「そうか」

57:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 18:16:40.13 ID:ypZpfZTlP
男「……猫さん、もう眠ってしまいましたか?」

猫「何だ? と謂うよりも猫は本来夜行性なのだ」
男「そうですか。其れにしては静かだったもので」

猫「……少し、考え事をな」
男「そうですか」
猫「……うむ」

男「実は私も少し考え事をしていたのですが」
猫「ほう、何をだ」

男「“言霊”についてです」
猫「……」

男「言葉には何か私たちのおよそ知り得ない力が宿る……。
 其れを言霊と呼ぶとして、では猫さんは御自身とどのような誓いを
 なされたのだろうか。
 そんな事を考えていました」

猫「それは……」

男「いえ。私は其れを訊こうとは思っていません。
 猫さんが話しても良いと思われた時に、話していただけるのならば、
 私は猫さんの友人として其れを嬉しく思います」

猫「友人、か……」
男「はい」

59:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 18:32:40.07 ID:ypZpfZTlP
男「ですから、私の為に。そして猫さん御自身の為に必要なのだと謂うのならば、
 私は何か猫さんにお願いをする事に吝かではありません」
猫「そうか。其れは助かる」

男「しかし、残念ながら、私は私の願いを上手く見つける事が出来ないのです」
猫「何でも良い。道案内以外ならばな」

男「しかし、こうして新天地での生活が始まりました。
 きっと何か猫の手も借りたい様な事態も発生するでしょう」
猫「其れは何となしに失礼な物言いではないか? ……まぁ良いが」

男「ですから、今暫くの猶予を頂ければ、其れはとても私にとって有難いことなのですが」
猫「っくく。願いを決めるのに猶予が欲しいと申すか」

男「ええ。猫さんには御時間を取らせてしまい、申し訳無いのですが」
猫「いや、良いだろう。願いが決まったのなら、何時でも謂うが良いさ。
 なに、吾輩もそう急いでいる訳ではない。ゆるりとやろうではないか」

男「そう言って頂けると、とても助かります」
猫「なに。御互い様さ」

男「嗚呼。謂いたい事を謂ったら、安心をして急に眠くなってしまいました」
猫「ならば眠ると良い」

男「はい……。御休みなさい、猫さん」
猫「あぁ。御休み」

60:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 18:46:17.28 ID:5hoxc+9+O
ねこさんの風貌キボンヌ

>>60 残念ながら自分は絵心がありませんので。御自由に御想像して下さい。

61:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 18:46:18.99 ID:AMC7hESS0
これからが本番っぽいな
ワクテカ


63:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 18:48:51.94 ID:ypZpfZTlP
――翌朝

ちゅんちゅん……

猫「……ん」
男「……ZZZzzz」

猫(どうやら眠ってしまっていた様だ)
男「むぅ……ぐぅ」

猫(嗚呼。この男はその様に馬鹿な顔をして眠るのか。――しかし)
男「くぅ……」

猫(“友人”か……。ふむ。思えば吾輩には久しく友と呼べる者は居なかったように思うな)
男「むにゃ……すぅ」

猫(初めは奇怪な男を壱百人目に選んでしまったと思っていたが。
 或いは壱百人目はこの男で良かったのやも知れぬ)
男「……ぐぅ」

猫(友人、か……)

64:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 18:55:49.02 ID:ypZpfZTlP
開始早々申し訳ないですが確りと書き貯め作って来ます。

65:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 19:05:22.63 ID:WBS7xl1iO
続きが楽しみ。面白い。

66:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 19:24:19.02 ID:5Z/dc0RzO
良スレ期待




68:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 20:47:18.01 ID:ypZpfZTlP
ガラッ。

男友「男ちゃ〜ん。朝よ〜ぅ!」

男「……ZZZzzz」

男友「あらぁ。可愛い寝顔だわ。
 いいこと? 10秒以内に目を覚まさなかったならばアタシの熱い接吻で
 男ちゃんの爽やかな朝の目覚めを演出しちゃうわよ〜ぅ?」
男「一体その目覚めの何処が爽やかなのですかッ!?」がばっ

男友「あら。起きて居るじゃない。つまらないわね」
男「そんな戦慄を覚える言葉を掛けられれば、誰でも飛び起きますッ!」

男友「冗談はさて置き。早く起きて準備をなさい。朝食ももう出来て居るわよ」
男「あぁ……済みません」

男友「ん? 何が?」
男「いえ。朝食を作って頂いてしまって」

男友「良いのよぅ。この間、欧羅巴の割烹着を街で買ってね。
 エプロン、と謂うらしいのだけれど。どうやら其れは裸体に直接着る物らしくて。
 可愛いのよぅ。 今度男ちゃんにも見せてア、ゲ、ル♪」

男「いえ……それは結構です」

72:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 20:53:36.59 ID:ypZpfZTlP
――居間

男「そう謂えば男友さん」
男友「なぁに〜?」

男「御嬢様はどちらに?」
男友「あぁ。御嬢様ならばもう女学校に行かれたわよ」
男「へぇ。随分と早起きなのですね」

男友「訊く処に拠ると、異国の球技の練習があるとかで早く御出掛されているらしいわ」
男「へぇ、彼女は壱から拾までハイカラなのですね」

男友「其れはまぁ、この辺りでも有数な名家の御嬢様ですもの」

男「其れはさて置き男友さん」
男友「なぁに?」

男「この朝食は実に美味しいです。昨晩も思って居りましたが、
 男友さんは本当に料理が御上手だ」
男友「あらぁ! 嬉しい事を謂ってくれるじゃな〜い!
 エプロンの御陰かしらぁ?」

男「其れは断じて違うと思いますが」

73:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 21:01:27.41 ID:ypZpfZTlP
――玄関

男友「さぁ、行くわよ男ちゃん」
男「……はい」

男友「あら? 元気が無いじゃない。どうしたの?」
男「あ、いえ……。いよいよ帝国大学に行くのかと思うと少々緊張してしまって」

男友「まぁ。誰だってそうね。大丈夫、アタシが付いて居るから」
男「有難う御座います」

男友「ま。落ち零れのアタシは反面教師として上手く使って頂戴」
男「そんな事は無いですよ」

男友「あら、優しいのね」
男「いえ。そんな事は」

男友「いいこと? でも気を付けなさい。
 あんまり誰にでも優しくしていると、
 本当に大切な人への優しさが伝わらなかったりもするものよ」

男(そう謂えば、今朝から猫さんを見て居ないですね)

男友「どうしたの? 行くわよ?」
男「あ、はい」

74:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 21:06:26.53 ID:ypZpfZTlP
――帝国大学

男「ここが……」
男友「そんな事をしていると、御上りさんだってばれちゃうわよぅ?」
男「あ……いえ。こんなにも活気の有る処は初めて見た物ですから」

男友「さぁて。先ずは色々と手続きを済ませないとね」
男「男友さんは今日の講義は在るのですか?」
男友「まぁ、在ると謂えば在るわね」

男「では、私も一緒にその講義を受けて見ても宜しいでしょうか?」
男友「良いけれど、アタシは仏蘭西文学科よ?」

男「確かに私は仏蘭西文学には通じて居りませんが、
 折角なので壱日でも早く何か講義を訊いてみたいのです。
 ……駄目でしょうか?」

男友「……解ったわ。
 正直に謂うと、アタシこの講義はサボタージュしてばかりだったから。
 真面目に講義に出る良い切っ掛けかも知れないわね」

男「……サボタージュ?」
男友「そうね。良い事を思いついたわ!
 講義が終わったら、アタシのサボタージュの行き付けである喫茶に連れて行くわよぅ」
男「それは楽しみです!」

76:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 21:13:56.40 ID:ypZpfZTlP
――大学内事務課

女事務員「――では、之で手続きは御仕舞です」
男「はぁ」

女事務員「何か質問は?」
男「いえ。大丈夫です」

女事務員「では、講義には明日から出て下さい」
男「はい。有難う御座います。では失礼します」

バタンッ。

男事務員「へぇ。あれが」
女事務員「ええ。あの変わり者の先生の御宅に
 新しく下宿することになった書生らしいですわ」

男事務員「あの先生も何をお考えなのか良く解らんよなぁ」
女事務員「まぁ私たちには関係の無い事ですが」

男事務員「はは。其れは違いない」

77:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 21:23:18.72 ID:ypZpfZTlP
男「お待たせしました」

男友「あら。意外と早かったのねぇ」
男「そうですか? 煩雑で矢鱈と永く感じたのですが」

男友「アタシ、あの眼鏡の女事務員なんだか苦手だわぁ」
男「嗚呼。私も何だか苦手だと感じてしまいました」

男友「――さて。じゃあ行くわよぅ」
男「?」

男友「そんなに小首を傾げないでよぅ。“仏蘭西文学の基層”の講義よ」
男「ああ」

男友「男ちゃん、ひとつ謂っておくけれど」
男「なにか?」

男友「……随分と退屈な講義よ?」
男「はぁ」

78:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 21:33:14.73 ID:ypZpfZTlP
――大講義室

老年教授「――拠って、この騎士道的な理想を以って拾壱世紀に書かれたローランの詩は」

男「……」
男友「……」

老年教授「此処で、このシャルルマーニュと謂うのはカロリング朝を開いた小ビビンの子で――」

男「……」
男友「……」

*

りーん……ごーん……。

老年教授「では次回はこの続きから……」

男「――あの、男友さん」
男友「なによぅ」

男「この講義を理解する事により仏蘭西文学の基層を理解出来るのだとすれば、
 私は今仏蘭西文学とは最も縁遠い書生の一人だと謂う事になると思うのですが」
男友「安心して。アタシもその一人よ」

79:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 21:43:48.11 ID:ypZpfZTlP
――街中

男友「まぁ。大学の講義なんて大体はあんなモノよ」
男「そうなのですか……」

男友「全く。あの膨大な知識量を詰め込む事に一体何の意味が在るのかしら
 なんてアタシは考えてしまうのだけれど」
男「はぁ」

男友「で。此処がアタシの行き付けの喫茶よぅ」
男「へぇ。随分と洒落た門構えですね」

男友「夕食の準備まで少し時間の余裕もある事だし、
 少し珈琲でも嗜んでいこうじゃない」
男「珈琲……ですか」

男友「あら。ひょっとして初めてかしら?」
男「ええ。何かの本で読んだ事は有るのですが……」

男友「初体験がアタシとだなんて、光栄だわぁ〜♪」
男「……」

80:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 21:52:51.17 ID:ypZpfZTlP
――喫茶「ライオン」

からりんっ。

旦那「いらっしゃ――おや。男友くんじゃないか」

男友「いやぁねぇ、マスター。そんなにがっかりしないでよぅ!」
旦那「ははは。そんな事は無い。男友くんはウチの大切な常連さんだからな」
男友「あらぁ。嬉しい事謂ってくれるじゃあない」

旦那「処で――そちらの青年は? 御友達かな?」
男友「あぁ、この子はアタシの隣の部屋に下宿してきた子で」

男「男と謂います。宜しくお願い致します」

旦那「宜しく。歓迎するよ。
 しかし、男友くんと下宿が一緒と謂う事は……」

男「あ、はい。先生の御宅に御世話になって居ります」
旦那「ふぅむ。成程なぁ」

84:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 22:00:06.91 ID:ypZpfZTlP
旦那「注文は珈琲で良いのかな?」
男友「ええ。珈琲を二つお願いするわ」

こぽぽぽぽぽ……。

旦那「嗚呼、そうだ。男友くん」
男友「なにかしらん?」

旦那「さっき、女友くんが来たよ。後でまた顔を出すと謂っていたね」
男友「あら、そう……」

旦那「なんだい? 随分浮かない顔をしているじゃあ無いか」
男友「そ。そんな事無いわよう」

旦那「――はい。お待たせ」

カチャリ。

男「之が珈琲ですか」
旦那「おや。男くんは珈琲を飲むのは初めてかな」
男「あ、はい」

男友「マスターの淹れる珈琲は美味しいわよう」
旦那「おいおい。彼に変に期待をさせてしまうと僕が困るよ」

85:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 22:09:00.27 ID:ypZpfZTlP
カチャリ。

男「香りが……とても良い香りです」
旦那「そうかい。それはどうも有難う」

男友「うぅ〜ん。退屈な講義を受けた後は、やっぱり之よねぇ」
旦那「折角だから、何かレコードでも流そうか」

男「レコードをお持ちなのですか!?」
旦那「この時勢、最早珍しいものではないよ」
男友「このマスターも物好きでね。欧羅巴のレコードを沢山集めて居るのよ」

旦那「新しい常連さん候補を迎える事が出来た祝いに、
 なにか目出度い曲を流すとしよう」

からりん。

男友「……げ」
女友「マスター、牛乳を持って来たぞ――あ。男友! 男友じゃあないか!」

男友「……御久し振り」
女友「久し振りだなぁ! 元気だったか!」

男(あの男友さんが押されている……)

90:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 23:09:02.35 ID:ypZpfZTlP
旦那「やぁ。女友ちゃん。牛乳をどうも有難う」
女友「いや。いつもウチを贔屓にして貰って此方こそ有難うと伯父上が謂っていたぞ」

男「男友さん、この方は?」
男友「ええとね」

女友「男友っ!」
男友「なによう。急にそんな大きな声を出さないで頂戴」

女友「しっかり大学には行っているのか!? 
 お母様もさぞかし御心配をなさっているだろう」
男友「いくらアタシでも貴女に心配される程落ちぶれちゃいないわ」
女友「なんだと!? 人が折角心配をっ――」

男友「あら。御存じないの? そう謂うのを余計な御世話と謂うのよ?」
女友「むきーっ!」

*

旦那「……二人とも、落ち着いたかい?」

男友「はい」
女友「店内で騒がしくして申し訳無かった」

93:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 23:15:32.10 ID:ypZpfZTlP
男「――で。御両人は御知り合いなのですか?」

男友「ええ、まぁ。ちょっとした腐れ縁ね」
女友「わたしと男友は同郷なのだ」

男「同郷? というと北国の……」

男友「まぁ。アタシは大学に進学するときに一人で下宿の為に東京に来たんだけれどね」
女友「わたしは伯父上が東京で商店を営んでおられてな。
 今はそちらに御世話になっているんだ。
 わたしも此方の女学校に進学をする為に男友より少し後に東京へと来たと謂う訳だ」

男「はぁ。成程」

男友「この喫茶で偶然会って以来、彼是と口煩くされていると謂う訳よ」
女友「なんだと!? 折角の人の親切をっ!」

旦那「こほんっ」

94:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 23:23:29.49 ID:ypZpfZTlP
男友「ああ。そう謂えば紹介が遅れたわね。この子は男と謂って」
男「どうもはじめまして」
男友「アタシの夫よ」

女友「ええっ!?」がっしゃーん
男「期待通りの反応ですね」

旦那「……うおっほん」

*

男友「冗談はさて置き」
女友「マスター。皿を割った弁償として今度から牛乳は割引で……」

男友「この子はアタシと同じ下宿先なのよ。昨日此方に来たばかりなの」
女友「そうか! わたしは女友! 宜しくな、男さん」
男「此方こそ宜しくお願いします」

女友「余り男友に毒されてはいけないぞ」
男「はい?」

女友「この男は東京に来てからと謂う物、真面目に大学にも行かず
 故郷のお母様に御心配ばかりお掛けしている不肖者なのだ」
男「はぁ」

96:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 23:31:17.86 ID:ypZpfZTlP
男「そう謂えば女友さんは現在女学校に通って居られるのですよね?」
女友「ん? そうだけれど?」

男友「嗚呼、そうそう。女友は御嬢様と同じ女学校に通っているのよ」
女友「そうか! 男友と同じ下宿先と謂う事は女さんと一つ屋根の下に
 御住いと謂う事だったな!」
男「何故態々其の様な謂い方をなさる」

女友「いやぁ。女さんは我が女学校でも最も美しく、かつ才女として名高いからな!
 健全な男子諸君としては、泉のように湧き上がる欲望を
 抑えきれぬ夜を送って居るのでは無いかと思ってな!」
男「はぁ」

旦那「そう謂えば、あちらの先生は今は異国に学問を修めに行かれて居るとか」

男友「そうよ。英吉利に文学を学びに行って居るのよう」

女友「――と謂う事は、現在御宅に居らっしゃるのは若い男女のみと謂う事にっ!?」
男友「アンタ、本当に一々煩いわねぇ。野良犬だってもう少し御行儀が良いわよ」

97:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 23:45:54.28 ID:ypZpfZTlP
男「学校では女さんはどの様な方なのですか?」
男友「それはアタシも気になるわねぇ」

女友「んー。余り人と仲良くするようなタイプでは無いかしらね。
 無口な方よね。
 わたしも何度か庭球を一緒にやった事があるけれど、
 流石のわたしでも打ち解けることは叶わなかったわ」

男「庭球?」

女友「なんと謂えばいいのかしらね。異国から伝わった球技なのだけれど」
男友「アンタがそんなハイカラな物をやっているなんて知らなかったわ」
女友「まぁ、人が足りないと謂う事で頼まれただけなのだけれど」
男「成程」

女友「只、やはりあの井出立ちだから。
 学校でも一部の――そうね。特に後輩は憧れ……のような物を持っている
 女学生も少なくない様ね」

男友「ふぅん。アンタももう少し器量良く生まれれば良かったわね」
女友「なんだとぅ!?」

旦那「いやいや。女友ちゃんは、また別な魅力がある淑女だよ。
 ねぇ、男くん?」
男「え? あぁ、まぁ」

98:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/23(水) 23:56:06.72 ID:ypZpfZTlP
女友「じゃあ、逆に訊くけれど」
男友「何よ」

女友「女さんはお家ではどの様な方なの?」
男友「あー。そうね……」
男「……」

女友「どうしたの? 何か謂いづらい事でも?」
男「あ、いえ。私はまだ昨日越して来たばかりなので良くは解らないのですが……」

男友「――とても、素敵な方よ。
 書生であるアタシ達にも良くして頂いて居るわ」
男「え」

女友「そうかぁ。やはりあの美しさは内面から滲み出ている物なのだな!」

男友「え、ええ。そうねぇ。アンタも見習いなさい」
女友「わたしは女性らしくするのは苦手なのだっ!」
男友「無い胸を張るのはみっとも無くてよ」
女友「なんだとーっ!?」

男友「あ。マスター。アタシ達そろそろ行かなくては」
旦那「あぁ、そうかい」
男「御金は御幾らでしょうか」

旦那「ああ。いいんだ。
 男くんに新たに常連になって貰う為に、今日はサービスしておくよ」

100:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/24(木) 00:12:40.83 ID:r9vqhJP8P
――帰り道、夕刻

男「……」
男友「どうしたのよう。そんな難しい顔をして」

男「あ、いえ。何故あの様な嘘を?」
男友「嘘って?」

男「女さんは素敵な方だ、と」
男友「あぁ、その事。……そうねぇ」

男「……」
男友「同じ女学校ならばきっと御嬢様や御家族の
 あまり愉快では無い噂を耳にする機会も有る筈なのに、
 どうして女友は、先刻男ちゃんから御嬢様の学校での評判を聞かれたときに
 其の様な事を謂わなかったか、解る?」

男「いえ……」

男友「女友は余り、人の悪口だとかそう謂う物に縁が無いというか――苦手なのよ」
男「はぁ」

101:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/24(木) 00:19:20.89 ID:r9vqhJP8P
男友「あの子はは昔から性の真っ直ぐな女でね。
 ほら、アタシってこんなんでしょ? 
 子供の頃なんて良く虐められていたんだけれど、
 其れを助けてくれたのもあの子だったわ」

男「……成程」

男友「だから。口裏を合わせる――と謂うのも少し違うのかも知れないけれど。
 あの子が御嬢様の事を悪く謂いたくは無いと思っているのなら、
 それに付き合ってあげようと思ったのよ」

男「男友さんは、人の事を考えられる優しい方なのですね」
男友「そんな事無いわよ。人から嫌われるのが怖いだけ。
 もう散々人からは嫌われて生きて来たから」

男「……」

男友「さぁ! 早く帰って夕餉の支度をしないと御嬢様に怒られてしまうわ!」にこっ

102:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/24(木) 00:28:59.66 ID:r9vqhJP8P
――夜、屋敷、居間

カチ、カチ、カチ……。

男「……遅いですね」
男友「困ったわね。これでは御嬢様の分の御飯が冷めてしまうわ」

男「何処かで遊んで居るのでしょうか?」
男友「あの御嬢様がねぇ……」

男「或いは庭球とやらの練習だとか」
男友「こんな日も沈んだ夜半に?」
男「……ふむ」

男友「流石に、探しに行った方が良いかしらねぇ」
男「どうでしょう。ひょっこり帰って来て
 『あら、どうしたの? 男二人で居間で見つめ在って居るのだなんて、正直に謂って気色が悪いわ』
 なんて謂いそうな物ですが」

男友「……そうねぇ」

103:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/24(木) 00:35:20.90 ID:r9vqhJP8P
――男、自室

猫「遅かったな。随分永い夕餉だったでは無いか」
男「いえ。女さんが中々帰って来られないので」
猫「ふむ。して?」

男「少し街へ御嬢様を探しに行く事になりました」
猫「ほう。殊勝な事だな」

男「もう男友さんは先に行ってしまいました。
 猫さん、何処か心当たりは有りませんか?」
猫「心当たり?」

男「ええ。若い女学生が学校の帰りに寄りそうな処を御存じ無いかと思いまして」
猫「さあな。第一に吾輩は彼女の事を良く知らぬのでな」

男「はぁ。とにかく私も今から探しに行きます故」
猫「仕方ない。吾輩も着いて行ってやろう」
男「其れは助かります。私独りでは、
 女さんを探して私が迷子になったと謂う事になり兼ねませんし」

猫「まぁ良い。どうせ暇を持て余していたのだ」

107:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/24(木) 00:46:35.62 ID:r9vqhJP8P
――街中、夜半

男「……目に付いた喫茶などを大方見て回りましたが、いらっしゃらないですね」
猫「今頃家に帰って居るのかも知れないな」

男「もう喫茶や書店も閉まる時間ですし、そうかも知れません」
猫「やれやれ。困った御嬢様だ」
男「ええ。全くです」

猫「どうした。お主はあの女に惚れたのでは無かったのか?」
男「なっ」
猫「どうした。又しても図星か」

男「確かに綺麗な淑女ですが、そのような端無い男では有りませぬ故」
猫「そうか……やはり、内面か?」
男「……」

猫「やれやれ。人間と謂うのは実に面倒な生き物だ」

108:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/24(木) 00:58:53.67 ID:r9vqhJP8P
猫「……しかし、あの女は何故ああ捻くれた人間に為って仕舞ったのだろうな」
男「さぁ。美人に生まれれば私にも解ったやも知れませんが」

猫「――果たして己の美貌に酔ったその末に、あの奢ったような心の持ち主に
 為ってしまっただけなのだろうか」
男「猫さんはどう御考えなのですか?」

猫「はて。吾輩にも其れは解らぬが。
 存外に人間に心と謂う物は、他人から見れば些細な事でも濃い影を落とすものだらう」
男「……」

猫「お主にも経験があろう?
 『どうして誰も自分の事を解ってくれないのか』
 ――まぁ、当然な話しよな。他人は他人で自分の事で精一杯なのだから」
男「……つまり、彼女にも彼女にしか解り得ない悩みが在ると?」

猫「はて解らぬな。有るやも知れぬし、無いやも知れぬ。
 吾輩はあの女では無い故。結局は推測の域をは出ないだらう。
只――」

男「只?」
猫「其れを察する事が出来る、と謂う事を人間は『優しさ』や『思い遣り』等と
 謂うのでは無いのか?」
男「猫さん……」

猫「吾輩は猫である。して人間の考えなどは解らぬがな」

109:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/24(木) 01:12:44.10 ID:r9vqhJP8P
猫「そしてお主が其の事を少しでも心得たと謂うのならば、
 吾輩はお主をあの娘の処に連れていく事に、吝かでは無いのだが」
男「えっ」

猫「吾輩は猫であるぞ。殊夜のこの街の事に関して存ぜぬ事など無い」
男「ならば初めからっ――あ」

猫「吾輩には、お主がどうにも少し勘違いをしているのでは無いかと思ってな」
男「猫さん……」

猫「さて。どうするのだ。
 心配せずともあの娘は放って置いても朝迄には帰って来るだらうさ」
男「私は……」

猫「他人の心の問題に深入りする事を嫌うのは解る。まぁ面倒だしな」
男「私は其の様な事っ」

猫「――それに、少しでも道を誤れば、逆に自分が傷付く」
男「……っ」

猫「さて。どうするのだ? 選び取るのは何時だって自らの手だらう」

111:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/24(木) 01:23:11.43 ID:r9vqhJP8P
――港、夜半


――昨晩お主と行ったな、あの港の埠頭。其処に小さな灯台が在る。

男「はっ、はっ、はっ……」

――この様な夜半ではもう港へ寄る船も無いだろうから、灯は消えて居る。

男「はっ、はっ、ぜぇ……」

――近くに自転車が止まって居る筈だから、解るとは思うが。

男「はっ、ぜぇ、ぜぇ……」

――しかしお主、一体あの娘にどんな声を掛ける。
 あの娘が何故このような時分までそのような処に居ると思う?

男「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ……」

――其の事を、考えずして其処へ行くのは只愚かなだけだと心得よ。
 ……此処からはお主独りで行くのだな。

男「ぜぇ、ぜぇっ……。自転車……在りました……」

112:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/24(木) 01:30:17.00 ID:r9vqhJP8P
――灯台、屋上

男「……探しましたよ」
女「貴方……どうして此処が」

男「まぁ、猫の手を借りただけです」
女「……?」

男「隣、良いですか?」
女「……」

男「はぁ。慣れない道を走るのは大変でした。
 何度も道を間違えて、随分遠回りしてしまった」
女「……何をしに来たの」

男「商店で飲み物を買って来ました。二つありますから、一緒に飲みましょう」
女「……」

男「んー。潮風が気持ち良いですね」

113:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/24(木) 01:39:20.23 ID:r9vqhJP8P
女「……別に、貴方に心配されなくても家には帰るわよ」
男「ええ。其れも知って居ます」

女「……何だかやり辛いわね」
男「はて。そうですか?」

女「……訊かないのね。こんな処で何をしているのか」
男「え? 海と星を見て居たのでは無いのですか?」
女「まぁね。其れはそうなのだけれど」

男「――本当は、訊いて良いものか。またどうやって其れを切り出そうか
 考えて居た処なのですよ」
女「……変な人ね」
男「ええ。良く謂われます」
女「……」

男「まぁ。昨日会ったばかりの私が、“元気を出して下さい”等と謂うのも
 何だか可笑しな話しなので、それは止めておきますが」
女「ええ、其れは賢明な判断ね」

男「……何だかやり辛いですね」
女「はて。そうかしら?」くすりっ

114:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/24(木) 01:47:18.19 ID:r9vqhJP8P
男「……あ」
女「何よ。どうしたの?」

男「あ、いえ……笑った顔を初めて見た物で」
女「これは失態ね。笑顔の安売りをしてしまったわ」
男「……なんだかなぁ」

女「何か?」
男「いえ。何も」
女「……そう?」

男「……」
女「うだつ――いえ、失礼。確か男と謂ったわね」
男「どんな謂い間違いだっ!?」

女「其れはさて置き。男くんはお父様と知己だったわよね」
男「ええ……まぁ」

女「――貴方はどう思う?」
男「え?」
女「お父様の事よ」

男「嗚呼。そうですね……。
 私が学問の道を志したのは先生の御陰と謂いますか。
 尊敬……して居ます」

女「……そう」

116:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/24(木) 01:57:23.82 ID:r9vqhJP8P
男「女さんはどう思われているのですか? 先生の事を」
女「……それは学者としてのお父様の事かしら。其れとも父親としてのお父様かしら。」
男「それは……」

女「まぁ“変人”と謂うのはどちらのお父様にも共通して居る事なのだろうけれど」
男「……」

女「“あの家の娘”何時も付いて回ったわね。まるでわたしの事を謂う時の枕詞みたい」
男「……」

女「周りから余りお父様が良く思われていない事は、
 幼い頃から解って居たわ。
 まぁ、単にその所為で心を閉ざしただなんて、
 そんなのは何処にでもある話しだろうけれど」

男「……それだけでは無いと?」

女「別に周りからどう思われようが、わたしは構わなかった。
 お父様の事もお母様の事も好きだったしね。
 家族が仲良くやっていければ、其れで不満は無かったわ」

男(好き……“だった”?)

117:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/24(木) 02:05:55.30 ID:r9vqhJP8P
女「今のお母様は、わたしの本当のお母様では無いのよ」
男「……え?」

女「周りからどう謂われようとわたしは構わなかったけれど、
 お母様には酷く堪えたのね。
 或る日学校から帰って来たわたしが見たのは……冷たくなったお母様だったわ」

男「そんな……」

女「――なんて」
男「え?」

女「殆ど初対面に近い貴方に何を謂っているのかしらね、わたしは。
 済まなかったわね。忘れて頂戴」

男「……御免なさい」
女「え?」

男「いえ……私は貴女の事を酷く勘違いしていました」
女「謂ったでしょう?
 周りからどう思われても、そんな事は別にどうだって良いわ」

男「それに――今の話を忘れる事も出来ません。
 だから謝ります。御免なさい」
女「……」

118:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/24(木) 02:16:47.72 ID:r9vqhJP8P
女「――まぁいいわ。勝手にしなさい」
男「其れはどうも」

女「……全く。貴方は熟々変わった人ね」
男「其れは先刻も仰いましたよ」

女「まぁ良いわ。――帰りましょう」
男「え?」

女「何を呆けた顔をして居るの? 帰るのよ、家に」
男「あ、あぁ。はい」

女「――貴方、自転車に乗った事は有る?」
男「いえ……見たのも昨日が初めてでしたが」
女「仕方が無いわね。確り練習しておきなさい」
男「は?」

女「こう謂う時は、
 男性が女性を自転車の後ろに乗せて、二人乗りと謂うものをする物らしいわ」
男「へっ?」

女「今日は仕方が無いから、わたしが自転車を漕ぐけれど。
 でも何時までも其れじゃあ、余りにみっとも無いから、
 練習をしておきなさいと謂っているのよ」
男「はぁ」

女「じゃあ、帰るわよ――わたしたちの家に」

119:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/24(木) 02:23:58.54 ID:r9vqhJP8P
――男自室

ガラリッ。

猫「随分と遅かったな」
男「猫さん……」

猫「なんだ? 真面目な顔をしてからに」
男「願い事が決まったのですが、謂っても宜しいでしょうか?」
猫「ほぉう。訊かせてみると良い」

男「彼女を――女さんを助けてあげたいのです。
 父親と、亡くなった母親までをも嫌って生きて行くには、
 彼女はまだ若すぎる」

猫「っくくく。なぁ、男よ」
男「なんですか、猫さん」

猫「吾輩は之まで九拾九の人間の願いを叶えて来たが、
 他人の事を願われたのは初めてなのだよ」
男「はい?」

猫「面白い――そう謂ったのだ」にやり

121:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/24(木) 02:28:31.70 ID:r9vqhJP8P
やっと此処まで書けましたー。
眠いから論理が飛んで変な事になってそうだ。
それと、遅筆で申し訳無い。

支援と保守してくれた人、読んでくれた人、どうも有難う。
そして眠ります。御休みなさい。

122:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/24(木) 02:48:02.51 ID:YsI/aqXG0
こういう文体好きだな
続き楽しみにしています


142:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/24(木) 15:28:48.55 ID:k8YzMZkiO
面白い
渾身の保守

160:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/24(木) 20:29:43.97 ID:ehvuV1idO
この雰囲気がいいよな




178:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/24(木) 23:45:40.56 ID:r9vqhJP8P
えと。ゴメンなさい。まさかこんなに帰りが遅くなるとは。
保守ありがとう。

急いでお風呂に入って、それから書きます。

179:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/24(木) 23:49:41.59 ID:eCsbJP/mO
きたぁぁぁぁぁぁ!
待ってました!


183:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 00:32:36.22 ID:eQ2jf1JfP
猫「とは謂ってみた物の、吾輩は猫で在って神ではない」
男「はぁ」

猫「突然後光がさしたと思えば、
 あの娘の抱える問題がまるで氷の様に溶けだして行く――という様な真似は出来ん」
男「では猫さんは一体何をされようと?」

猫「まぁ訊け。加えて謂うのならば、吾輩はあの娘の抱える問題や、
 或いはあの娘に直接関わるつもりは無い」
男「は?」

猫「惚れた女を助けるとまで嘯いたのだ。
 壱から拾まで他人任せでは、お主も格好が付かぬだらう?」
男「其れはまぁ……そうですが」

猫「吾輩に出来るのは、飽く迄手助けに過ぎぬ」
男「……」

猫「っくく。まぁ、そう呆けた顔をするな。
“願いを叶える”などと大見栄を切って置いて何だが、
 猫の手と謂うのは本来役立たずな物なのだよ」

男「随分と御謙遜を……はぁ」

184:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 00:39:00.84 ID:eQ2jf1JfP
男「では猫さん」
猫「なんだ?」

男「その。先ずは手掛かりの様な物が必要なのだと思うのですが」
猫「ふぅむ」ぽりぽり

男「生憎、先生と奥様は英吉利に渡って居られる様ですし」
猫「まぁ待て。男よ」
男「はい?」

猫「お主、あの娘を“助けたい”と謂ったな」
男「はい」

猫「お主の考える“助ける”とは一体どのような事なのだ?」
男「……ええと」

猫「勢いで嘯いたは良い物の、
 はて如何したものかではちゃんちゃら可笑しいでは無いか」

男「それは……そうですが」

185:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 00:44:32.67 ID:eQ2jf1JfP
猫「はぁ。何なら違う願いに変えても良いのだぞ?」
男「猫さん、其れは待って下さい」

猫「ほう」

男「私は――私は見たのです。女さんの、夜の海を眺めるあの氷の様な眼を」
猫「眼だと? 眼が如何したと謂うのだ」

男「私は、海の見える街の至極一般的な家庭に育ちました故、
 一体親を嫌うと謂う事が、どの様に哀しい事かは解りません。
 
 ――けれど其れが女さんの心に影を落として居るのだとすれば、
 私はその重みを少しでも軽くする事が出来ればと、そう思ったのです」
猫「……」

男「猫さん、お願いします。どうか幾許のお力添えを私にっ」

猫「――はぁ。全く、熟々面倒な生き物よの。人間と謂うのは」

186:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 00:52:00.83 ID:eQ2jf1JfP
――翌朝、屋敷、台所

とんとんとんとん……

男「〜♪」

ガタンッ。

男「あ。お早う御座います。朝食はもうすぐ出来るので、今暫く御待ちを」
女「……何だか気色悪いわね」
男「今日は私が朝食を準備する番です故」

女「まぁいいわ。御茶だけ頂戴」

こぽぽぽぽっ……。

女「じゃあ、わたしはもう行くから」
男「へっ?」
女「朝からお腹を壊したくは無いもの」
男「えええぇ」

女「ああ、そうだ。蟲――いえ、男くん」
男「はぁ」

女「今日、付き合って欲しい処が有るのだけれど。夕刻からなら時間があるわよね?」

バタンッ。

男「……え?」

187:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 00:57:05.62 ID:eQ2jf1JfP
――昼休み、喫茶「ライオン」

男友「――そ、其れでっ!?」

男「いえ。ですから、私の返事を待たずして女さんは襖を閉めて行ってしまった故」
男友「こ、之は一体どう謂う事っ!?
 昨夜に一体何が在ったって謂うのっ!?」

旦那「おやおや。之は面白くなって来たじゃあ無いか」

男友「マスター。あちらの御客が呼んで居るわよ?」
旦那「んー? まぁ良いんだよ少しくらい待たせておけば」
男(……良いのか?)

旦那「そいつはどうやら……ランデヴーの誘いって奴だねぇ」
男「らんで……?」

旦那「くくっ。遭引の事だよ」

男「……え?」

188:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 01:03:29.13 ID:eQ2jf1JfP
男友「男ちゃん、本当にどうしたって謂うの?
 あの御嬢様が他人を何処かに誘うだなんて、アタシ一度も訊いた事が無いわ」
男「いえ……どう謂う事か私も良く解らないのですが」

旦那「全く。鈍い男は損をするよ、男くん」
男「な。何を仰っているのですかっ」
男友「いやぁねぇ。こんな事なら男ちゃんに確りと唾付けとくんだったわぁ」

男「や。其れは勘弁をして下さい」

旦那「兎も角。行くんだろう? 何処へ行くのかは解らないが」
男「えぇ。まぁ」

男友「うぅん。そうよねぇ。
 “付き合って欲しい処”って一体何処なのかしらねぇ」
旦那「最近、上埜の繁華街に映画館が出来たらしいね」
男友「へぇ。マスター、行ったのかしら?」

旦那「ああ。飛切りのイヤラシイ映画だったね」
男「じゃあ其処だと謂う可能性は無いですね」

男友「あら。そうかしらぁ?
 御嬢様だって女の子なんだから、やっぱり色っぽい事にも
 興味が無いと謂う訳では無いんじゃな〜い?」

男「あの女さんが……ですか?」
旦那「そうだよ、男くん。女性は何時だって僕達の考えの左斜め上を行く
 発想を持ちあわせて居るんだ」にやりっ

男「そんな……まさか……」

189:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 01:12:55.88 ID:eQ2jf1JfP
男「まさか……あの女さんに限って……否、然し……左斜め上……」ぶつぶつ

男友「……ねぇ、マスター」
旦那「なんだい?」

男友「……先刻から男ちゃんが妙に思い悩んだ顔をしているわ」
旦那「おや。之は余計な事を吹き込んでしまったかな?」

男友「まぁ良いじゃない。面白い事になりそうだわぁ」
旦那「う〜ん、そうには違い無いけれど。
 男くんには少し悪い事をしてしまったようだね」

男「……やはり、昨日少し格好を付けた事を謂ったのが……否、然し……私はそんな……
 ……決して下心を持っていた訳では無く……あのような事をっ……」ぶつぶつ

男友「ねぇ、マスター」
旦那「なんだい?」

男友「……あれは間違いなく童貞ね」
旦那「ああ、違いない」

190:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 01:21:37.38 ID:eQ2jf1JfP
――夕刻、帰り道

男「……はぁ。講義が全く頭に入りませんでした」

猫「何を独り謂つて居るのだ」
男「こっ、これは猫さん。
 どうしたのですか。今朝から御姿が見当たらないので心配していたのですよ」

猫「何をそう動揺して居るのだ」
男「そ、そんな私はっ」

猫「まぁ然し、良かったではないか」
男「へ?」

猫「惚れた女の方から遭引に誘われる等、お主も中々隅に置けぬな」
男「なっ、なっ」

猫「っくく。謂ったであろう? この街の事で存ぜぬ事など無い、とな」
男「〜っ!?」

191:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 01:33:28.03 ID:eQ2jf1JfP
猫「……落ち着いたか?」
男「はい……申し訳ありません」
猫「まぁ良い。揶揄した吾輩も悪かった」
男「いえ……」

猫「まぁ。あの娘と会話をする機会が増えれば、
 何かお主の願いの手掛りも見付かるやも知れぬしな」
男「それは、まぁ」

猫「先ずはあの娘の心の問題を如何にしてお主が知るかだらう。
 さもなくば解決など夢の又夢だ」
男「……はい」

猫「そして其れは又、お主が如何にあの娘の心を開くかと謂う事でもあろう。
 ――吾輩の謂う事が解るか?」
男「はい。猫さん」

猫「まぁ。生まれて此の方、女とはおよそ縁遠かったお主が上手くやれるとは思わぬが」
男「そうなのです。其れが問題なのです……」

猫「之ばかりは吾輩が教鞭を執る訳にも行かぬ故。精々頑張ると良いさ」
男「はぁ」

192:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 01:51:18.59 ID:eQ2jf1JfP
男「時に猫さん」
猫「なんだ?」

男「猫さんはこんな処で何をしていたのですか?」
猫「吾輩か? ……うむ。少々人捜しをな」
男「人捜し? 何方をお捜しになって居たのですか?」

猫「ん……まぁ、良いだらう吾輩の事は。
 お主は吾輩の事を気にして居る場合では無かろうに」

男「其れはそうですが。この街の事ならば何でも御存じの猫さんが、
 捜し人の居場所を御存じ無いと謂うのを少し不思議に思いまして」

猫「あぁ……、何故だらうな。あの方の居られる場所だけは吾輩にも解らぬのだ。
 或いは既にこの街には居らぬのやも知れぬ」
男「ふうむ? 時々急に猫さんが何処かへ居なくなってしまうのは、
 その人捜しをしていらっしゃるからなのですか?」

猫「まぁ、色々とな。吾輩も何かと忙しい身故」
男「まさか見目麗しい雌猫と遭引をっ!?」

猫「お主の頭は御花畑かっ」

193:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 02:04:44.54 ID:eQ2jf1JfP
――夕刻、屋敷、居間

カタンッ。

男「……あ」
女「お待たせしたかしら?」

男「いえ……」
女「ん? どうしたの?」

男「いえ。……袴姿以外の女さんを見たのは初めてだった物で」
女「嗚呼、之は何やら欧羅巴の着物らしいのだけれど。
 袴よりも動き易いから、此方に着替えたのだけれど、気に入らなかったかしら?」
男「そっ、そんな滅相も有りませんっ。そのっ……御似合いだと思います」

女「あらそう? では行くわよ」
男「ええと、女さん」
女「何か?」

男「之から私たちは何処へ行くのでしょうか?」
女「狗――いえ、男くんは黙って付いて来れば良いのよ」

男「……狗の散歩ですか」
女「まぁ、そんなところね」

194:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 02:30:31.24 ID:eQ2jf1JfP
――路面電車、車内

ちりんちりん……。

女「何よ。そんなにきょろきょろと。もう少し御行儀良く出来ないの?」
男「いえ。私は電車に乗るのは初めてな物で」
女「あら、そうなの。とんだ田舎者なのね」
男「まぁ其の通りなのですが」

女「……」
男(困りました……一体私は何を話せば良いのやら)

*

男「と、時に女さん」
女「何よ」

男「そろそろ教えて頂けませんでしょうか?
 私たちは一体何処へ向かって居るのですか?」

女「……そんなに何処へ向かうか気になるのかしら?」
男「ええ、あの。わっ、私としても心の準備と謂う物が有ります故……」
女「何をそんなに動揺しているのかしら? わたしにはさっぱり解らないわ」

『次は新宿――新宿で御座います――』

女「さぁ、降りるわよ」
男「え? 上埜では無いのですか?」
女「何を謂っているの。そんなに呆けて居ると置いて行くわよ」

195:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 02:50:31.48 ID:WzK2ZHyW0
支援寝た?

196:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 03:20:20.68 ID:dGKdU4q9O
流石に寝たか

203:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 08:29:59.27 ID:GONcBkut0
上埜でググっちまった
上野か


204:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 08:35:22.07 ID:PPwlDzEKO
すごい続きが気になる




222:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 14:02:26.29 ID:eQ2jf1JfP
こんちは。保守ありがとうございます。

少し調べてたら間違えてたので訂正。

×『次は新宿――新宿で御座います――』
○『次は神田――神田で御座います――』
伊勢丹の第一号店は神田でした。新宿店は昭和8年開店らしいのです。

夕方までに昨日書く予定だった所まで行きたいな。
保守ばかりして貰って申し訳ないので、出来るだけ急ぐよ。

223:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 14:03:21.62 ID:3aWY+7PC0
ゆっくりでいいよ。ゆっくりまってるから。

224:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 14:04:11.18 ID:eQ2jf1JfP
――伊勢屋丹治呉服店

がやがやがや……。

男「こ、此処は……?」

女「あら。まさか男くんは呉服店にも来た事が無いと謂うのかしら?」
男「まぁ、その通りなのですが」

女「全く。通りでそんなみすぼらしい格好をしているのね」
男「はぁ」

女「折角東京に来たのだから、少しは都会の様子を勉強なさい」
男「確かにこのようにハイカラな人が多く居る場所が有るだなんて、
 私には想像だに出来なかったですが」

女「勉強代として、今日は男くんにわたしの荷物持ちをさせてあげるわ」
男「はぁ。どうぞ御好きに使って下さい」

225:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 14:11:27.65 ID:eQ2jf1JfP
男「これは凄い。色とりどりの反物が在るのですね……」

女性販売員「この柄など御嬢様には御似合いかと思いますよ」
女「そうかしら?」
女性販売員「ええ。其方の旦那様もきっとお気に召されるかと思います」
女「ふぅん。――ねえ」

男「へ?」

女「これ。どうかしら?」
男「どう、と言われましても……」

女「ほら。この男は女性に気の利いた言葉の一つも掛けられない様な、
 そんな甲斐性無しなのよ」

女性販売員「そ、其の様な事……」

227:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 14:22:51.36 ID:eQ2jf1JfP
男「嗚呼、ええと、女さん」
女「――なによ」

男「その藍の色合いは涼しげで、女さんに良く御似合いかと。
 朝顔の柄も季節を感じてとても素敵です」
女「……あら、そう? じゃあ之を頂戴」
女性販売員「畏まりました」

男「へっ?」
女「何よ。自分で素敵だなんて謂った癖に」

男「いえ……まさかそんな気軽に御買い上げになるだなんて」

女「お父様は御金を稼ぐだけ稼いで、殆ど手を付けないものだから。
 まぁ、父親の脛を齧る世間知らずの娘みたいで少し癪だから、
 普段はあまり使わない様にはしているのだけれどね」
男「はあ」

女「まぁ。それでも偶には是位の贅沢をしても罰は当たらないでしょう」
男「はあ、まあ」

女「何を呆けて居るの? 次の店に行くわよ」

228:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 14:24:14.46 ID:eQ2jf1JfP
――同刻、喫茶「ライオン」

男友「ねぇ。マスター?」
旦那「なんだい?」

男友「冗談は抜きにして、男ちゃんと御嬢様は何処へ行ったのかしらねぇ」
旦那「そうだねぇ。まぁ、買い物の荷物持ちが精々じゃあ無いかな」

男友「いえ。でも普段御嬢様は余り御買物はしないのよ」
旦那「へぇ、そうなのかい」

男友「時々、――其れは本当に稀な事なんだけれど。
 とても稀に、大きな御買物をするくらいね。
 ほら、あの自転車とかがそうね。普段の生活は本当に質素なものよ」
旦那「でも、御金には不自由していないんだろう?」

男友「まぁ、其れはそうなんでしょうけれど」
旦那「じゃあ、買物という線は無いかなぁ」

男友「そうねぇ。演劇でも観て居るのかしら」

230:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 14:29:59.36 ID:eQ2jf1JfP
旦那「時に男友くん」
男友「なぁに? マスター」

旦那「先刻から原稿用紙と睨めっこして、どうしたんだい」
男友「あぁ、之ねぇ」

旦那「……」
男友「アタシ、実は作家に為りたかったのよ。
 それで文学の勉強をする為に仏蘭西語なんてちっとも知らない儘に
 大学の仏蘭西文学科になんて入学してしまったのだけれど」

旦那「珈琲が冷めてしまったみたいだね。淹れ直そう」

カチャリ。

男友「芥川なんて大好きでねぇ。表紙が擦り切れるまで読んだわ。
 高等学校では同人誌なんて書いても見たのだけれど、まぁ鳴かず飛ばずね」
旦那「――煙草を吸っても?」

男友「良いわよ。どうせ客はアタシしか居ないんだしね」
旦那「はは。違いない」

231:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 14:35:00.79 ID:eQ2jf1JfP
男友「大学の講義にも付いていけず、こうして落ち零れてしまったのだけれど。
 今思えばどうして故郷を出てこんな処まで来てしまったのかしらね。
 ねぇ、知っている? 津軽は本当に雪深くて――素敵な処なのよ」

旦那「へぇ。僕も一度行ってみたいな」
男友「只、確りと服を着込んで行かないといけないわね」
旦那「そうだね。心得ておこう。
 ――しかし、珍しいね」

男友「なにがよぅ?」

旦那「男友くんが僕に自分の事を話すなんて。
 女友くんと此処で再会した時以来じゃあ無いかな?」
男友「そうかしら?
 ……まぁ、兎に角。少し悩んで居てね」

旦那「何をだい?」
男友「此の儘、何と無しに大学に通い続けて良いものかしら。
 ねぇ、知っている? もう留年も弐度目なのよ、アタシ」

旦那「ふぅむ。女友くんには相談したのかい?」
男友「なっ、何であの子の名前が出て来るのよぅ!」

232:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 14:44:44.60 ID:eQ2jf1JfP
旦那「だって、好いて居るんだろう?」
男友「じょ、冗談じゃあ無いわっ」

旦那「小説家に為りたいのなら、沢山の人生の経験を積むことだと思うけれどね」
男友「な、何よ」

旦那「事実は小説より奇也。そう謂うじゃあ無いか」
男友「其れはそうだけれど……」

旦那「色恋の一つもした事がない作家の小説を読みたいとは、
 少なくとも僕は思わないねぇ、男友君」
男友「……」

旦那「まぁ。僕が口を出す様な事でも無いのだけれどね。
 いやぁ、然し若いと謂うのは素晴らしい事だね」
男友「ふふ。マスターだってまだ若いわよ」

旦那「おや。もうこんな時間だ。
 僕は少し出掛けなければいけないから、男友くん」
男友「何よぅ」

旦那「若し、牛乳を配達に来る人などが居たのなら、宜しく伝えておいてくれよ」

235:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 14:59:08.66 ID:eQ2jf1JfP
――其の頃。

男「ちょ、ちょっと女さん。待って下さいよ」
女「なにかしら、男くん」

男「いえ……少し、腕が痺れて来ました故」
女「あら。荷物を持ってくれる人が居るからと謂って、
 少し買い過ぎたかも知れないわね」
男「……之はどう考えても買い過ぎかと思いますが」

女「困ったわね。男くんは軟弱と謂っても一応は殿方だから、
 これくらいの荷物は大丈夫だと思ったのだけれど」
男「それは随分と高く買って頂いていたようで」

女「自転車が有れば籠に荷物を入れる事も出来たのだけれど。
 ――まぁ良いわ。少し何処かで一休みしましょうか」
男「はい?」

女「“一つ喫茶と洒落込もうでは無いか”。そう謂ったのよ」

237:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 15:16:24.02 ID:CAefORJaO
男友さん、モデルは太宰治なのですか?

>>237 ご明察。

238:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 15:17:07.87 ID:eQ2jf1JfP
――喫茶

女給仕「御注文はお決まりでしょうか!」

男「私は珈琲を」
女「そうね。わたしは苺パフエを」
男「え?」
女「……何よ」
男「いえ。何でも」

女給仕「よろこんで!」

男「ふぅ。ひと心地付きました」
女「そう。其れは良かったわ」

男「……」
女「……」

男(……どうしてこの人と居ると無言が恐ろしいのでしょうか)

239:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 15:24:22.20 ID:eQ2jf1JfP
女給仕「お待たせ致しました!」

女「良くこの蒸し暑いのにそんな熱いものが飲めるわね」
男(その矢鱈と甘そうな物を食べるよりは幾許か増しかと思うのですが)

女「……」
男「……」

女「……ひと口、食べる?」
男「へっ」

女「冗談よ。そんな情けない声を出さないで頂戴。見っとも無いわ」
男「……失礼致しました」

女「……」

男(……その冷静な顔で一心不乱にパフエを食べる姿が滑稽だ、
 等と謂ったら一体どんな暴言を吐かれるのでしょうか)

女「……なによ」
男「いえ。何でも無いです」

243:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 15:34:15.33 ID:eQ2jf1JfP
女「……ふぅ」
男(そしてあっと謂う間に完食……)

女「――ところで」
男「はい?」

女「貴方、女友とも知己らしいわね」
男「え? ああ。この間ライオンと謂う喫茶で御一緒致しました」
女「ふぅん」

男「女友さんがどうかされたのですか?」
女「今日、女学校で話し掛けられてね。其れだけの事よ」
男「はあ」

女「……」
男「……」

女「――そろそろ良いかしらね」ぼそりっ
男「はい?」

女「何でも無いわ。店を出ましょう、男くん」

245:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 15:40:16.80 ID:eQ2jf1JfP
――街中、夕暮れ

男「ですから女さん、歩くのが速いです」
女「あら。そうかしら?」

男「……全く」
女「何か?」
男「いえっ。何でもっ」
女「そう?」

男(――少しは心を開いてくれたかと思って居ましたが、
 どうやら之は本当に只の荷物持ちのようですね。
 先行きは永いと謂う事ですか……)

女 ピタリ
男「……?」

女「嗚呼、そうだわ。男くん」
男「何か?」

女「わたしが自転車を買った御店、丁度この辺りなのよ」
男「……はぁ?」
女「折角だから、寄ってみる事にしましょう」

246:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 15:47:25.74 ID:eQ2jf1JfP
――異国品店

がらり

中年店員「ん? ――ああ、お嬢さん」
女「御機嫌よう、店員さん」

中年店員「丁度良かった、つい先刻とど――」
女「あら店員さん。また新しい自転車を入荷したのね。
 希少だと謂っていたのに、之は凄いじゃあない」
中年店員「……はぁ?」

女「そう謂えば男くん」
男「はぁ」

女「その両腕一杯の荷物。自転車に乗せて押せば、
 少しは楽に家まで帰れるのではないかしら?」
男「え? ああ。其れはそうかも知れませんが……」

女「ふむ、店員さん。その自転車、頂けないかしら」
男「はっ!?」

店員「ええ。そりゃあ勿論良いですけれど」

248:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 15:54:34.61 ID:eQ2jf1JfP
女「――これで調節も大丈夫ね」
男「然し、本当に良いのですか……?」

女「何か不満でも?」
男「いえ。そう謂う訳では……」

女「あらそう。じゃあ、家に帰るわよ。男くん」
男「はぁ」

女「店員さん、どうも有難う」
中年店員「いえ。此方こそ毎度御贔屓に」

女「ほら。呆けて居ないで行くわよ。もうすっかり夜も遅いわ」
男「ええと、はい」

ガラララ……ピシャン。

中年店員「あのお嬢さんも変わり者だなあ。
 ――ああ、しまった。予約票を預かるのを忘れて居たな。
 ……まぁ、良いか」

250:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 15:59:52.17 ID:eQ2jf1JfP
――帰り道、夕暮れ

かららららっ……。

女「荷物を運ぶのが楽になって良かったじゃあない」
男「こんな高価な物、本当に頂いて良いのですか?」
女「それくらい別段大したことは無いわ」
男「はぁ」

女「……」
男「……」

女「――嗚呼、そういえば」
男「何か?」

女「昨日謂ったわよね。自転車の練習をしておきなさいと」
男「そう謂えばそんな話もしましたね」

女「丁度良かったわ。わたしの自転車で練習をされて、
 仕舞いに壊されてしまっては厭だもの」
男「御心配せずとも勝手に女さんの自転車を使う様な事はしませんが」

251:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 16:07:20.66 ID:eQ2jf1JfP
女「それに。何時までもそうやって押して居るだけでは、
 態々自転車を買った意味が無いのだから、
 確りと練習をしておくことね」

男「はぁ。精々頑張ります」

女「……」
男「……」

女「――ねぇ、男くん」
男「はい?」

女「そう謂えばわたしは、
 こんな綺麗な夕暮れの中を誰かと帰路に着くと謂うのは、本当に久しぶりだわ」
男「女さん……?」

女「――昔、今となっては本当に昔の事だけれど。
 お父様とお母様と三人で、この道を歩いたのを覚えて居るわ」

男「……丁度こんな、少しだけ胸を打つ程綺麗な洛陽の中を?」
女「そうね。丁度こんな、何もかもを透かしてしまいそうな洛陽の中を」

254:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 16:18:19.28 ID:eQ2jf1JfP
かららららっ……。

女「右手にお父様の手を、左手にお母様の手を繋いで。
 濃くなった影がすうっと長くなって……」

男「女さん……」

女「――如何してかしらね。あの頃は、あんなにも仕合わせだったのに。
 何時からかわたしは、わたしを残して去ったお母様を恨み、
 その原因を擦り付けて、お父様をも恨んでしまった」

男「いえ。きっと……仕方の無い事だったのです。
 そして多分それは……其れだけお母様の事を、そして先生――お父様の事を
 大切に思っていたからなのではないかと、私はそう思います」

女「……そう」
男「……ええ」

女「――もう、あんな昔の事は忘れてしまっていた筈なのに」
男「……」

女「不思議だわ。如何してかしらね……。
 如何して――涙が止まらないのかしら……」

255:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 16:27:25.71 ID:eQ2jf1JfP
――屋敷、門

女「――御免なさい」
男「何がですか?」

女「いえ……わたしとした事が、たかが落日に涙してしまうなんて」
男「いえ。きっと必要な事だったのですよ。
 偶には泣かなくては涙が貯まって仕方が無いです」

女「――」
男「女さんは滅多に涙を流したりはしなさそうですしね」
女「……貴方ねえ」
男「おろ。これは失敬」

女「……くすりっ」
男「これは。笑われてしまった」

女「何だか少し疲れてしまったみたい。先に部屋に戻るわね」
男「ええ。ゆるりとされると良いでしょう」

女「――嗚呼、そうだ」
男「なにか?」

女「自転車――確りと練習しておきなさいよ?」にこり

256:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 16:32:25.18 ID:eQ2jf1JfP
ふぅ。此処までが昨日書く予定だったところであります。
なので夕方の部はこれにて。
夕飯やらお風呂やらを終えたら夜の部を書きに来ます。

259:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 16:49:38.38 ID:rdTKCx8y0
幸せって昔は「仕合せ」と言っていたのか

260:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 17:13:50.62 ID:ALh0XBFd0
どのくらいの時代設定なんだ?何となくはわかるんだが詳しく決まってるなら知りたい

261:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 17:33:49.26 ID:Iry1vBGxO
>>260
明治後期〜大正ぐらいじゃないかな?


274:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 20:20:27.37 ID:tIVn8T0O0
>>261
調べたら神田の伊勢丹は関東大震災で潰れてるらしい
市電が通っていたからおそらく明治後期から大正初期じゃないかと思われ

270:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/06/25(金) 20:00:23.58 ID:/96+NGtX0
良い雰囲気ですね
続き楽しみに待ってます


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